小泉麹屋の歴史

小泉麹屋の歴史

明治元年、農家であった小泉家では「農閑期にできる仕事」として、麹づくりを東京で学び技術を持ち帰ったのがはじまりと言われています。

麹を作って販売する他、農家の人が「麹を作ってほしい」と持ってこられる米や麦を麹にしてお戻しする「賃麹(ちんこうじ)」を営んでいました。

当時は味噌や醤油などを各家庭で手づくりすることが普通でしたので、麹が必要だったのです。鶴見や綱島など遠くから多くの方がお米や麦を持ってこられました。



小泉麹屋がつくる米麹

小泉麹屋がつくる米麹は、創業当時より、米の外側に麹菌を生やす手法で、内側に生やす方法よりも、より食材をまろやかにする特徴があります。小泉麹屋の麹について

戦後、農家の数が減っていくと、家庭でお味噌を造る習慣が少しずつ減っていき、そこで、お味噌を作って販売するようになりました。

当時の麹師が、米こうじと小麦こうじをブレンドして味噌を造ると美味しくなることを発見し、このときに、現在の「横浜贅沢三昧」のレシピができあがりました。この「浜味噌」は、飛ぶように売れたそうです。今でも当店の看板お味噌です。できあがりお味噌の通販はこちら



横浜贅沢三昧、米麹と小麦麹のブレンドでつくる味噌

四代目急逝により、小泉麹屋の閉鎖

1983年、四代目急逝により、小泉麹屋は閉店を余儀なくされます。後継者であった五代目(現在の麹師)が15歳の時でした。しかし五代目の母が、「大きくなったときに、再開するかもしれない」と期待を残し、麹室(こうじむろ)や釜をそのまま保存する決心をします。


消えたのれんの再開

十四年ののち、五代目が「消えたのれんを復活させる」ことを決意し、小泉麹屋が製造を再開します。

四代目と共に麹を作っていた叔父は会社経営をしていましが、早朝は五代目に技術を教え、その後自らの仕事を行うという生活を続けながら麹づくりの技術を教えていきました。小泉麹屋に新しい希望が戻ってきました。



菊名町内会で発行した「菊名あのころ」で叔父が、小泉麹屋の歴史について話をさせていただきました。菊名あのころを読む

おうちで手前味噌の良さを全国へ

味噌汁を飲んだことがない人に、味噌汁の味を伝えようと思ったら、どのように表現するでしょうか?しょっぱい・・・でも塩のような辛さではありませんし、甘く、まろやかさもありますが、それらは砂糖のような甘さではありません。

表現が難しいほど、奥深い味わい。これは、麹の仕事がつくりだしています。そして麹菌を使って発酵食品を造る文化は日本特有のものです。

均質な味の大量生産品はとても便利ではありますが、ひとつくらい、お味噌汁くらい、家庭の味を作りたいものだと思っています。子どもたちが「これがうちの味!」と思ってくれるような味を。

五代目が麹作りを再開して以来、もっと麹を知って、身近に感じてもらいたいと、インターネットを通じて全国に「てづくり味噌キット」をお届けするとともに、麹屋で「てづくり味噌教室」をスタートしました。

手造り味噌講習会

現在では、出張講習会も含め、年間200回以上、お味噌の講習会を開催させていただいております。

未来へつづく。